2009年11月 2日
木曾谷
木曽川上流渓谷を中心とする地域の総称である。木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が延長約60kmにわたっており
、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山が
ある。現在の長野県南西部にあたる。
大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmとい
う豊富な雨量と、濃飛流紋岩類の風化による保水力の高い土壌によって、針葉樹が生育しやすい条件がそろっており、近世
初期以降、ヒノキを中心とする林業がおこり、当地の主要産業として栄えた。
史料上の記事は、まず『続日本紀』に見え、702年(大宝2年)に岐蘇山道(きそのやまみち)が、713年(和銅6年)に吉蘇
路(きそのみち)が開通したとある。木曾の表記は平安時代末期ごろに現れ、源義仲(木曾義仲)の活躍などによって広く
定着したとされる。
はじめ美濃国恵那郡に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の貞観年間には勅命による検分が行わ
れ、県坂上岑(鳥居峠)を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義
仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。
古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘(宗像少輔領)と小木曽荘(八条院領)の2つの荘園が史料上に現れ、中世中期
(14世紀)頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。14世紀までに常陸の
真壁氏が地頭として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、建武争乱の勲功で足利尊氏から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞
として与えられた上野国沼田氏が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は源義仲の末裔を
称し、木曾氏と名乗った。
近世初頭には、江戸幕府の政策に従って畿内や北陸などの林業先進地から多くの杣工が動員され、林業開発が急速に展開し
た。また木曽川の開削事業が進められ、大量の材木の運送が可能となった。木曾谷は尾張藩領とされ、尾張藩は林業により
多大な収入を得た。近世前期は林材の伐採が著しく、尾張藩は森林保護・伐採抑制政策を進め、その結果、広大なヒノキ林
が形成されることとなった。
明治以降、尾張藩有林は国有の官林へ編入され(木曾官林)、1889年(明治22)年には御料林として皇室財産となった。第
二次大戦後の1947年(昭和22)に国有林に指定され、林野庁の所管となった。その後は、1959年(昭和34)の伊勢湾台風に
よる被害木の大量伐採などがあったものの、木材の収穫量は長期的な減少傾向にある。
美濃国から信濃国を結ぶ位置にあるが、平地に乏しく急峻な地形が続くため、交通の難所として知られてきた。『続日本紀
』には702年(大宝2年)に岐蘇山道の建設、713年(和銅6年)に吉蘇路の開通に関する記事があるが、古代官道の東山道は
、木曾谷を通らず、美濃から神坂峠を越えて伊那谷へ抜けるルートを通った。
近世には中山道が木曾谷ルートに設定され、11の宿場(木曾11宿)が置かれ、明治以降は中央西線や国道19号が開通した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ここではヒノキを中心とする林業が隆盛したようですね。
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